創業300年の歩み

小野薬品は1717年の創業以来、江戸・明治・大正・昭和・平成、そして令和と、300年にわたり、患者さんの健康を願い「病気と苦痛に対する人間の闘いのために」邁進してまいりました。

300年という、日本はもとより世界でも最も古い歴史を有する薬品会社として存続し得たのは、いつの時代も人と技術が一体となって、その時代が求める医薬品創りに挑戦してきたためと考えております。
300周年を機に、先人たちの挑戦の歴史にふれていただくコンテンツをご用意しましたので、ご覧いただければと思います。

第1章
01
伏見屋市兵衞(伏市)の
創業
1722

かつて江戸中期の大坂・道修町には二つの勢力が存在しました。
一つは堺に起源をもつ小西一族、一つは太閤秀吉が大坂城築城に際し、京都・伏見より随伴を許された伏見屋一統です。

1722(享保7)年、徳川幕府は偽薬を排除するため、和薬種の検査を行う「和薬種改会所」(わやくしゅあらためかいしょ)を江戸・駿府・京・大坂・堺の五都市に設立します。
道修町では薬種屋仲間(のちに薬種中買仲間と呼称)124軒が株仲間として幕府から公認され、大坂に入る和薬種はすべて道修町で検査されることとなったのですが、このとき、幕府が設置を命じた和薬種の真偽を検査する「和薬種改会所」の初代頭取に就任したのが初代伏見屋市左衞門で、江戸中期の道修町における一大勢力であった伏見屋一統の宗家であったと思われます。

浪花独案内
浪花独案内

小野薬品の創業は、初代伏見屋市兵衞が20歳のときに別家が許され、1717年、のれん分けにより伏見屋市兵衞を襲名したことから始まります。
当時、独立してもなかなか一軒店をもてることは難しく、最初の5年は主家に帰属するか、脇店(注文屋)をするかで商いを行ったものと思われ、1722年に道修町で開店、借家ながらも一軒の独立した店をもったことは、『嘉永二酉新版 日本二千年袖鑒 初編五』の伏見屋市兵衞図版にも記されています。
株仲間として名前が挙げられたのは1735(享保20)年の人数帳からでした。

嘉永二酉新版 日本二千年袖鑒 初編五

嘉永二酉新版 日本二千年袖鑒 初編五

02
御鶴飛来譚千歳明神(おつるさん)由来

鶴飛来図

1848

六代目市兵衞の頃、伏見屋に一羽の鶴が舞い降ります。このエピソードは、『道修町漫録』(三ツ橋邦治郎著)の中に、「嘉永元(一八四八)年10月22日 大坂坐摩神社祭禮の日、一鶴伏見屋市兵衞の物干台に飛来しこの氏神祭の佳き日天来の宝客を早速金鋼の中に招じて瑞祥を寿祝した」と記され、自社所蔵の四曲八双屏風にも「鶴飛来図」として描かれています。

また、田中金峰著『大阪繁昌詩』に「お鶴さん」由来記として記されています。
六代目市兵衞は飛来してきた鶴の飼育(鶴囲い)を幕府に願い出ています。鶴囲いは幕府の許可が必要で、当時一種のステイタスシンボルでもありました。後にこの鶴は、伏見屋市兵衛の庭の一角に「千歳明神」としてまつられ、今も本店の屋上に静かに鎮座しています。

鶴飛来の記念品「蔵に鶴」

時代は江戸から明治の世へと大きく変わろうとしていました。
当時の庶民、特に町人階級の生活は決して楽なものではなく重く苦しいものであったことは、道修町の薬種商においても同様で、1722(享保7)年に幕府より公認された株仲間124軒はことごとく時代の波に没し、道修町で堺の小西とともに一大勢力であった、豊太閤ゆかりの伏見屋一統の中でただひとつ、伏見屋市兵衞のみ、残存得たのは、ここにも栄枯盛衰の甚だしさを察知し得られます。

03
伏市ふしいちから小野市おのいち
明治~昭和へ

明治以降、西洋医学が本格的に導入されるようになり、医薬品の製造技術は飛躍的に進展しました。
他の薬種問屋が新しい分野である「製薬」に着手する中、小野市兵衞は、武田長兵衞、田辺五兵衞、塩野義三郎、上村長兵衞とともに、大日本製薬株式会社(現・大日本住友製薬)を設立しました。
この会社はそれらの問屋の共同出資により製薬部門を担当するとともに、昔からの改会所の伝統により試験部を設け、官立の衛生試験所と同格の資格で薬品の試験を行いました。

七代目 小野市兵衞
七代目 小野市兵衞
八代目 小野市兵衞
八代目 小野市兵衞

昭和になり、八代目市兵衞は1934(昭和9)年、創業以来続いた屋号を合名会社「小野市兵衞(小野市)商店」(資本金16万円)に改組・改称して近代的経営への切り替えを図りました。
また、販売力の強化・充実を進め、医薬品需要に応えるべく、製薬研究を開始しました。
この頃の小野市兵衞商店は、道修町では地方部廻り専門の商店を意味する「注文屋」と呼ばれており、特に中国・四国地方に勢力がありました。

小野市兵衞商店が新薬開発に取り組んでいたころ、昭和初期の戦火の拡大による統制経済が進行し、国家総動員法が公布され、医薬品も配給統制下に置かれます。
当時の状況を、八代目小野市兵衞の息子である小野雄造(のちの九代目小野市兵衞)は著書『わたしの歩み 苦痛と病気への挑戦』のなかで、「わたしは工場を借り、製薬業の仕事をはじめることにした。といっても、右から左に新薬がつくれるわけではない」と、その苦慮する胸裡を語っています。

第2章
二十世紀の前半に、二度にわたる世界大戦を経験した日本。
幸いにも戦災を免れた小野市兵衞商店は、すぐさま事業を再開し、製薬会社として新たな舞台へ挑みます。
さらに、大衆薬市場へと本格参入。
より多くの人々にくすりを届けるためのチャレンジが始まりました。
01
小野市兵衛商店から
小野薬品へ
1947

敗戦の傷跡がまだ癒えず、日本中が混乱のさなかにあった1947(昭和22)年、専務取締役であった小野雄造(九代目小野市兵衛)は、「時代の流れの中で生き抜くために、進むべき道は医薬品の製造しかない」という考えのもと、念願だった医薬品製造への本格進出に挑みます。
「日本有機化工株式会社」と「日本理化学工業株式会社」の二社を設立し、医薬品の「販売」と「製造」という二つの機能を持つ製薬会社として、新たなスタートを切ったのです。

小野雄造(九代目 小野市兵衞)

小野雄造(九代目 小野市兵衞)

「エフェドリン」街頭宣伝

「エフェドリン」街頭宣伝

翌1948(昭和23)年には、日本有機化工を「小野薬品工業」と改称。同年、大阪大学 村橋俊介教授との共同開発により、当時合成が至難とされていたエフェドリンの工業化に成功、喘息鎮咳剤「エフェドリン錠」を発売しました。

この新薬の創製に注がれた熱い情熱と挑戦が、小野薬品の創薬精神の礎となって、現在まで引き継がれることになります。

小野薬品設立時メンバーの集合写真 写真中央の黒い上着が八代目小野市兵衛、その左が小野雄造(九代目小野市兵衛)、前が小野順造(十代社長)
小野薬品設立時メンバーの集合写真
写真中央の黒い上着が八代目小野市兵衛、その左が小野雄造(九代目小野市兵衛)、前が小野順造(十代社長)
02
大衆薬拡充の時代
1950

1950(昭和25)年から1964(昭和39)年にかけては、小野薬品にとって大衆薬の拡充を目指した時代といえます。それを支えたのは、積極的な広告宣伝活動でした。
活字にとどまらず電波の世界でも、小野薬品の大衆薬は話題を集めていきます。

七代目 小野市兵衞
白木みのる氏によるコレステロール代謝改善剤
「アテロ」広告 [写真協力:白木みのる]
八代目 小野市兵衞
総合強精活力剤
「リキホルモ」

ミヤコ蝶々と南都雄二の漫才コンビを起用した「夫婦善哉」のスポンサーをはじめ、朝日放送制作「スチャラカ社員」では、番組の冒頭に当時人気コメディアンであった白木みのる氏が歌う「♪〜動脈硬化も 血圧も コレステロールの せいなるぞ」という歌詞により、コレステロールの呼称を一般に広めました。さらに、総合強精活力剤「リキホルモ」(1961年)の広告には、国民的人気を誇ったプロレスラーの力道山を起用しました。

大阪証券取引所 第2部市場に株式上場した当時(1962年)の役員集合写真

相次ぐ新製品の発売に伴い、営業所も拡充。製造、販売、流通を中心に整備を進め、小野薬品は医薬品メーカーとしての経営基盤を確かなものにしていきます。こうした懸命の努力が実り、1962(昭和37)年に大証二部、翌1963(昭和38)年には東証二部への株式上場を果たすことができました。

第3章
「人間の生き甲斐で最高の位置を占めるものは、
自己をフルに燃焼させ、能力の限界をためしてみることである。」(小野雄造)
小野薬品は、大衆薬の成功に甘んじることなく、
本格的な医療用医薬品という新たな領域に挑むことになります。
その出発点は、「夢の物質」と言われたプロスタグランディンとの出会いでした。
01
「プロスタグランディン」との
出会い
1956

戦後、本格的に大衆薬市場に参入した小野薬品。しかし、景気の変動や1961年の国民皆保険体制の確立を受けて、大衆薬を取りまく環境は、次第に厳しいものになっていきます。そのような中でも、小野薬品は、1956(昭和31)年に増え続ける老人性の疾患を総合的に研究することを目的とした「老人病研究会」を発足するなど、大衆薬から医療用医薬品への転換の可能性を探し求めていました。
そして1965(昭和40)年、「第九回老人病研究会」に招いたベルグストローム教授(スウェーデン・ルンド大学)による特別講演が、小野薬品を次なる挑戦へと駆り立てることになります。

「プロスタグランディン(以下、PG)は脂質代謝を改善し、血管を拡張して血圧を下げ、さらには血小板凝縮を抑制し、気管支平滑筋も拡張する作用があり、マイクログラムオーダーという極めて微量で非常に強力な生理活性を示すものである」。壇上からの言葉が、当時の社長、小野雄造の心を捉えました。
小野薬品が1958(昭和33)年に発売したコレステロール代謝改善剤「アテロ」の主成分であるリノール酸は、人間の体内でPGへと変化します。運命的な出会いを感じた小野雄造は、PGの医薬品化をめざす決意をしました。

第9回老人病研究会

第9回老人病研究会
PGの基礎構造を決定し、人体内での代謝機構を明らかにしたベルグストローム教授(1982年 ノーベル生理学・医学賞 受賞)の講演

1965

道なき道を歩み、研究用PGを合成

1965(昭和40)年当時、小野薬品は研究員20名、売上高43億円、利益は2億円弱という、まだ小さな会社でした。医療用医薬品の開発経験をほとんど持たない会社が、PGという得体の知れないものに立ち向かうことになったのです。

まず、着手したのは「研究用PG」をつくることでした。当時はPGの化学合成法が確立されていなかったことから、方法は生合成しかなく、少量を合成するにも多大な労力がかかりました。ベルグストローム教授がPGの化学構造決定に用いたヒツジの精嚢腺は、日本では集めることが難しく、牛の精嚢腺を扱うことにしました。大阪食肉市場に出向いたところ市場の熟練者でもどれが精嚢腺かわからず、獣医の協力も得て、解体中の牛から精嚢腺を集めました。

1979年、ベルグストローム教授から小野雄造宛に送られた手紙には「”ONO-glandin”の将来性は、あたかも月が照らしているかのように輝いているなぁ」と記されていた。

1979年、ベルグストローム教授から小野雄造宛に送られた手紙には「”ONO-glandin”の将来性は、あたかも月が照らしているかのように輝いているなぁ」と記されていた。

それから2年を費やし、1万数千頭の牛の精嚢腺500kgとオオマツヨイグサの種子1トンからできたPGsは、わずかに25g。その原料費は、当時の金額で5000万円(200万円/g)にものぼりました。小野薬品は、このようにして得られた貴重なPGsを惜しげもなく日本の研究者に配り、PGヘの知見をともに深めていったのです。

1967年、京都大学の早石修教授を首班とする「第一回PG研究会」において、小野雄造は次のように述べました。「PGを開発対象といたしますことは大変な困難を予想させるものであり、今の段階ではギャンブルであるとしか申しようがありません。大げさに言えば、大西洋を西へ西へとサンタマリア号に乗って新大陸を求めたコロンブスの心境であります」。

しかし、人のやらない仕事に最初に取り組んだ人々は、皆このような不安に悩まされたに違いない。不安を恐れていては、どんな結論も出せないのだ。そんな強い想いが、研究を前へと進める原動力になっていました。

小野薬品のPG研究にご尽力いただいた早石修教授(京都大学)
小野薬品のPG研究に
ご尽力いただいた
早石修教授(京都大学)
PGの全化学合成に成功したE.J.コーリー教授(ハーバード大学)[1990年 ノーベル化学賞 受賞]
PGの全化学合成に成功した
E.J.コーリー教授(ハーバード大学)
[1990年 ノーベル化学賞 受賞]

吉報がもたらされたのは、この頃でした。「米ハーバード大学のE.J.コーリー教授がPGの全化学合成に成功した」という情報が入ったのです。小野薬品は、直ちに研究員を派遣。そして1968年、世界に先駆けて初めてPGの全化学合成に成功した企業となりました。
この化学合成によるPGの製造法を確立したことで、「研究用PG」のモノづくりから「医薬品としてのPG」のモノづくりへと視点が大きく拡がり、小野薬品のPG研究は一段と加速することになります。

1968

中央研究所開設、本格的なPGの研究開発へ

1968(昭和43)年6月、PGをはじめとする本格的な医療用医薬品の創製を目指して、中央研究所(現・水無瀬研究所)を開設しました。

中央研究所(現・水無瀬研究所)

1979年、ベルグストローム教授から小野雄造宛に送られた手紙には「”ONO-glandin”の将来性は、あたかも月が照らしているかのように輝いているなぁ」と記されていた。

企業理念が刻まれた石碑を背に立つ
小野雄造

同研究所の敷地内には、「Dedicated to the Fight against Disease and Pain(病気と苦痛に対する人間の闘いのために)」と銘記された石碑が建立されています。この言葉は、世界に通用するプロスタグランディン研究に邁進する全社員に通じる精神として刻まれ、また、医薬品業界に携わる人間としての崇高な使命として今日まで伝えられることになったのです。

薬害問題の反省と、安全性・信頼性の追求

1960〜70年代は、日本を揺るがす大型薬害事件が次々と発生した時代でもありました。こうした中、小野薬品にも、事業展開に影を落とすサリドマイドとクロロキン網膜症という薬害事件が起こりました。1960(昭和35)年に発売した睡眠鎮静剤「ボンブレン」に含まれたサリドマイドによる催奇形性の問題。そして、1961(昭和36)年に発売した腎疾患治療剤「キドラ」に含まれたクロロキンが長期使用によって体内に蓄積し、網膜症を引き起こした問題です。

当時は、有効性や安全性の評価が現在ほど十分に厳密であったとはいえず、結果として副作用等の調査や、医療関係者への注意喚起も十分に実施できていなかったことが被害を拡散させました。
小野薬品は、これらの薬害事件を真摯に受け止め、反省し、二度とこのような事件を引き起こすことのないよう、その後の医薬品の有効性・安全性の厳重な評価に努めてまいりました。

現在も、生命関連商品を取り扱う企業として安全監視体制を構築し、医薬品の安全性・信頼性の保証、向上に継続的に取り組んでおります。

小野薬品の安全監視体制図

小野薬品の安全監視体制図

02
世界初となる
プロスタグランディン製品を発売
1974

PGの研究開始から9年目となる1974(昭和49)年3月、ついに世界初のPG関連製剤として陣痛誘発・促進剤「プロスタルモンF注射液」が発売されました。大きな苦痛を伴う出産・分娩を安全かつスムーズに行いたいという、誰もが抱く願いをかなえる薬剤でした。
続いて、経口陣痛促進剤「プロスタルモンE錠」(1978年)、難病であるバージャー病の治療剤「注射用プロスタンディン」(1979年)、閉塞性血栓血管炎治療剤「オパルモン錠」(1988年)など、それぞれの領域において世界初となる薬を、次々と世に送り出していきます。

陣痛誘発・促進剤「プロスタルモンF注射液」
「注射用プロスタンディン」

「注射用プロスタンディン」は、希少疾患の治療薬であることから企業としての事業性が問われる中、「社会から求められている薬であれば世に出すべきであり、必要な薬であれば市場は創造できる」として、開発を継続。長年の開発研究の成果を、本当に必要とする人のために捧げるという姿勢のもと、プロスタグランディンは多様な領域へ広がりを見せていったのです。

1978

世界初を、次々と。広がる自社創製品

多くのプロスタグランディン製剤を上市するとともに、1978(昭和53)年に、膵炎治療剤「注射用エフオーワイ」、1985(昭和60)年には、慢性膵炎の治療に役立つ世界初の経口蛋白分解酵素阻害剤「フオイパン錠」を発売。膵炎治療に新しい道を開きます。

また、1988年(昭和63年)には、世界初のトロンボキサン合成酵素阻害剤「注射用カタクロット」をクモ膜下出血後の虚血症状改善剤として発売、1992(平成4)年には、世界初のアルドース還元酵素阻害剤「キネダック錠」を糖尿病性末梢神経障害治療剤として、経口トロンボキサン合成酵素阻害剤「ベガ錠」を気管支喘息治療剤として発売、1995(平成7)年には世界初のロイコトリエン受容体拮抗剤「オノンカプセル」を喘息治療剤として発売、2002(平成14)年には世界初の急性肺障害治療薬となる「注射用エラスポール」と、頻脈性不整脈治療剤「オノアクト点滴静注用」を発売。小野薬品は、世界初となる新薬を次々と世へ送り出していきました。

第4章
オープンイノベーション
プロスタグランディン製剤や酵素阻害剤で、製薬会社として強い存在感を示した小野薬品。
その挑戦は、尽きることがありません。
世界の最先端技術を有する研究者との産学連携により、新たな創薬の可能性を切りひらくオープンイノベーション。
小野薬品のチャレンジは、世界を舞台に広がっていきました。
01
グローバル・オープンイノベーション
世界の叡智と、ともに進化する
1982

1982(昭和57)年にノーベル生理学・医学賞を受賞されたベルグストローム、サムエルソン、ベインの3博士や、1990(平成2)年にノーベル化学賞に輝いたコーリー博士をはじめ、小野薬品は世界トップクラスの研究者から学び、協力し合うことで、かつてない医薬品を生み出してきました。
まだオープンイノベーションという言葉が使われるようになる以前から、最先端技術を有する研究者との産学連携を通じて創薬に取り組んできたのです。

オープンイノベーションによる画期的新薬の創製を目指し、小野薬品の研究所で創薬経験を積んだ社員が現地法人OPUK(英国)、OPUS(米国)に駐在。現地の大学や研究機関、ベンチャー企業を訪問して、有望な共同研究先を探し出すとともに、優秀な研究者と議論を重ねながら研究を推進しています。

産学連携による「グローバル・オープンイノベーション」の活動を通して、小野薬品はこれからも、いまだ医療ニーズが満たされない領域やがん領域において、独創的、革新的な医薬品を届けていきます。

02
ライセンス活動の強化
2002

苦難の道を経て、多くのプロスタグランディン製品を世に出した小野薬品。 2002(平成14)年の「オノアクト」上市以降、自社創製化合物の開発中止が相次ぎ、厳しい状況に直面しましたが、自社創製化合物の開発に加え、開発パイプライン拡充、そして製品ラインナップ充実のためにライセンス活動を強化しました。
2007(平成19)年の過活動膀胱治療剤「ステーブラ錠」、2009(平成21)年の骨粗鬆症治療剤「リカルボン錠」以降、国内外のパートナー会社から導入・新発売し、厳しい時期を乗り越えてきました。

第5章
世界で初めてとなるヒト型抗ヒトPD-1モノクローナル抗体「オプジーボ点滴静注」/抗悪性腫瘍剤。
がん治療の常識を覆すほどの革新的なアプローチで、
多くの患者さんに新しい希望を届けようとしています。
その研究開発が陽の目を見るまでには、実に20年もの歳月にわたる、挑戦の歴史がありました。
01
常識を覆すアプローチ、
「オプジーボ」の開発
1990

がん細胞に直接攻撃を加える医薬品が主流だったなか、がん細胞への攻撃を阻害していたブレーキを解除するという「オプジーボ」のメカニズムは、従来のがん治療の枠組みを超えた画期的なものでした。

1992(平成4)年に京都大学本庶研究所室でPD-1が発見されますが、その機能は長い間不明でした。その間もねばり強く研究が継続され、1999(平成11)年にようやく、PD-1の欠損マウスが加齢に伴って自己免疫疾患を発症するという興味深い結果が得られました。翌2000(平成12)年には、PD-1に結合する分子としてPD-L1を同定。2002(平成14)年には、同欠損マウスによってPD-1ががん免疫の抑制に関与することが確認されたのです。

オプジーボの作用メカニズム

オプジーボの作用メカニズム

2005

がんと闘う人類のために

PD-1、PD-L1の同定によって本格化した「PD-1抗体プロジェクト」。
しかし、前例のないアプローチであるがゆえに、その開発もはじめから医療現場に受け入れられたわけではありませんでした。

医療機関では、多くの抗がん剤の臨床試験が行われており、「オプジーボ」は十数番目という最低の優先順位。不慣れながん領域での臨床試験、開発担当者にとって苦悩の日々でした。やがて1例、2例と顕著な効果が報告されはじめると評価が大きく変わり、臨床試験の優先順位も急きょ一番上に位置づけられることになります。

抗悪性腫瘍剤/ヒト型抗ヒトPD-1モノクローナル抗体『オプジーボ点滴静注』

抗悪性腫瘍剤/ヒト型抗ヒトPD-1
モノクローナル抗体『オプジーボ点滴静注』

筑波研究所

筑波研究所

そして2014(平成26)年7月、「オプジーボ」は、PD-1を標的とする免疫チェックポイント阻害剤として、世界で初めて承認され、同年9月に発売された薬剤となりました。
「オプジーボ」は、そのメカニズムから特定のがん腫にとどまらず、幅広いがん腫に有効を示すことが期待されています。

02
これからも、
病気と苦痛に対する人間の闘いのために
2017

創業300年、新薬の創製に成功する確率は、わずか2.5万分の1。新薬づくりを取りまく環境が厳しさを増すなか、小野薬品は新薬の研究開発を貫いてきました。

「オプジーボ」をはじめとする新薬で得た経験は、将来にわたってイノベーションを起こす体制をつくるための糧になります。小野薬品は、ひとつの成功に甘んじることなく、次々と新しい価値を生み出すことで、300年という歴史を紡いできたのです。

水無瀬研究所の石碑には『病気と苦痛に対する人間の闘いのために』という企業理念が刻まれている

水無瀬研究所の石碑には
『病気と苦痛に対する人間の闘いのために』という
企業理念が刻まれている

私たちはこれからも、世界の多くの人々に新薬を通じて健康を届けていきます。「病気と苦痛に対する人間の闘いのために」。その企業理念をもとに一人ひとりが行動を起こし、想いを具現化していきます。小野薬品の前には今、さらに大きな挑戦の舞台が広がっています。

300年を超えて

300年を超えて
どんな未来が見えるだろう。

今という現在は、過去の誰かの夢でできている。

さあ、自由の「叡智」が集まる小野にしかできないことをしよう。
ねばり強く。一歩ずつ。
小野には、他者と違うということを、「面白い」と言える仲間がたくさんいる。
先人たちの挑戦の歴史が、未来の挑戦をあと押ししてくれる。

未来はもうとっくに、始まっている。
ここでひとりひとりに問おう、今、何に挑むのか。

小野がやらねば、誰もやらない。
さぁ、そんな道を切り開こう。